映画ノクターナルアニマルズ|あらすじとネタバレ感想!ラスト考察と結末も・・・

凛子

ハマればハマる、トム・フォード作品。
独特な作品が多く、これからも楽しみですね~

ひっきー

一見、分かりにくく、実は単純。

と、思いきやかなり奥が深く考えは巡る。

観れば観る程、虜になる作品「ノクターナル・アニマルズ」。

作品情報

あらすじ

アート・ディーラーとして成功を収めながらも夫との結婚生活は冷え切り、満たされない日々を送るスーザン。

ある日そんな彼女のもとに、20年前に離婚した元夫エドワードから彼の著作『夜の獣たち(ノクターナル・アニマルズ)』が送られてくる。

作品が彼女に捧げられていることに困惑しつつも、早速読み始めたスーザン。

そこに綴られていたのは、車で移動中の家族が暴漢グループの襲撃に遭い、妻と娘が殺され、夫は刑事と共に犯人たちを追い詰めていくという壮絶な復讐の物語だった。

そのあまりに暴力的な内容と完成度の高さに衝撃を受けながらも、これを彼女に捧げたエドワードの意図をはかりかねるスーザンだったが…。

(出典:http://www.allcinema.net/)

キャスト・監督

エイミー・アダムス(スーザン・モロー)

1999年に『わたしが美しくなった100の秘密』のオーディションに合格して映画デビューした。

その後はしばらくテレビドラマのゲスト出演や映画の端役が続いたが、2002年にスティーヴン・スピルバーグが見せた彼女の映像がレオナルド・ディカプリオの目に留まったことがきっかけで長編大作『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン 』に出演。


ジェイク・ジレンホール(エドワード・シェフィールド / トニー・ヘイスティングス)

1991年公開の『シティ・スリッカーズ』でビリー・クリスタルの息子役でデビュー。

1999年公開の『遠い空の向こうに』で映画初主演を果たし、批評家から高い評価を受ける。

2001年公開の『ドニー・ダーコ』では主人公ドニーを演じ、インディペンデント・スピリット賞主演男優賞候補へ。以後、米国期待の若手俳優として注目を浴びた。


トム・フォード(監督・脚本・製作)

アメリカ合衆国テキサス州オースティン出身のファッションデザイナー、映画監督、また、彼の名を冠したファッションブランドである。

2009年、クリストファー・イシャーウッドの小説を原作とする映画『シングルマン』を発表し、映画監督デビュー。

本作は第66回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門に出品され、主演のコリン・ファースが男優賞を受賞し、第82回アカデミー賞主演男優賞にもノミネートされる。

(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/)

ネタバレ感想

もうとにかくオープニングから「強烈」です。

とても静かに物語は進み、現実の生活と小説の中の世界とが終始絡み合います。

始めは、あれ?これ?・・・もしかして本当にあった話?

いや、でも違う、などとこっちまで引き込まれて混乱します。

そして没頭していると、だんだん見えてくるのです。

これは、過去に自分にした仕打ちに対するリベンジなのだと。

小説家としてなかなか先が見えず、酷い裏切りで去っていったスーザンに対しての復讐。

ここまでリアルに想像させ、恐怖をも感じさせる作品を作るまでになったのだと。

そしてスーザンを誘惑するかのように引き寄せ、最後に自分の元へ来たことで復讐は終わる。

・・・でも、気になる。

本当にそれだけの話なのか??気になってまた観てしまう。

するとどうも違うような気が更にしてくるのです。

何度も観て、考える、そんな作品。

「夜の獣たち」とラスト考察

スーザンの画廊には「REVENGE」の文字が書かれているアート作品が映ります。

「これ、いいですよね~」なんてスタッフが言います。

まさしくこれは「復讐劇」。

映ったときに、やっぱりそうだ!と思うかもしれませんが、本当にそうなのか?

闘志に燃え、小説を書き上げ送り付けたのか?

スーザンをかき乱し、最後に自分の元へ現れるように仕向けたのか?

単純にそうとももちろん取れ、エドワードは信頼し合っていたと思っていたスーザンに、小説家になることも将来も男としても、全てを否定されるように裏切られる。

どんな思いで今まで過ごして来たか、この小説でスーザンに同じ思いをさせる為の復讐劇。

静かに残酷に追い詰め、完璧に終わる。

ではこれが復讐劇ではないとしたら、どういう意味を持つのでしょうか?

全てはエドワードが送った「夜の獣たち」の内容にあるのではないか?

この作品の中で出て来るのは、暴漢の中心人物であるサイコパスな男「レイ」。

その仲間の男たち、守ってくれているようで何か違和感のある警察官。

そしてトニーと奥さんと娘。

奥さんと娘は無残に殺され、トニーが復讐をしようとする話ですが、このストーリーでいくとトニーの奥さんは何もしていないのに残虐に殺される。

現実のスーザンは「された方」ではなく「した方」。

そう考えるとサイコパスな「レイ」こそが「スーザン」なのではないのか?

レイをスーザンと見立て、トニーはエドワードと考える。

すると別の視点から見えてくるものは、いかに自分が残酷なことをしたのか身をもって感じさせる為だったのではないか?

仕返しをしてやる!ではなく、幸せな家庭を築くはずだったものを全て壊した。

本作は現実と小説が絡み合い、その中で現実でスーザンは母親からの束縛や夫の浮気など幸せと言えるものではないのが分かる。

自分のやったことは、どうなった?

そう、スーザンに問いかけているのではないか?

だからこそ、「スーザンに捧ぐ」となっているのではないでしょうか?

ただ自分を見つめ直してね、という理由だけではない事は、唯一トニーの味方である警察官が「レイに復讐を果たせ」と言っていることで分かります。

これでエドワードは自分もスーザンへの思いを断ち切り、スーザンは自分がどういう人間だったのかを嫌と言う程に見せつけられ変わる時。

そう思うと、ラストのスーザンの表情は観ている側から、単純な復讐劇ならしてやったりですが、自分を見つめ直し歩き出す物語だと思うとなんとも言えず辛いものに変わります。

エドワードはスーザンを誘い、結果姿を現すことはないのですが、スーザンが来た時点でやはり昔と変わっていないと確認していたのかもしれません。

だからこそ、ここで断ち切り新たなスタートをしなければならないと思ったのか。

様々な考察が出来ますが、監督も自分の考えは言っているものの、それぞれ感じ取って欲しいとも言っています。

監督の意図は、やはりエドワードはトニーであり、小説を通じて「君は僕にこういうことをしたんだよ。家族を殺し、僕自身をも殺した」そうスーザンに言っているのだと。

でも、昔の僕とは違う。とも言っています。

こんな小説も書けるようになり、君とは終わったんだ。

そして最後はスーザンの再生を促すためのものだったようです。

人生には残酷でも、辛く悲しくても、受け入れて前に進まなければならないことがある。

流石はトム・フォード。斬新です。

まとめ

トム・フォードはデザイナーであり、監督。

他の作品もそうですが、やはりスタイリッシュであったり感性が違う

この作品で思い知らされた部分は、オープニングとレイの家のトイレ。

そんなこと思いつくのか?と思うはずです。

語り合える人が周りにいれば、面白いかもしれませんよ。

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